ピート・タウンゼントが「ピンボールの魔術師」のビートを刻んだギブソンのJ-200

2024年にデビュー60周年を迎え、映画『ザ・フー キッズ・アー・オールライト』が日本初劇場公開となるなど、話題の絶えないザ・フー。今回は、そのギタリストであるピート・タウンゼントが愛した、ギブソンJ-200のエピソードを紹介しよう。いくつものギターを破壊してきた“破壊王”が、長年大事に使い続けたJ-200とはどんなギターだったのか。

文=鈴木伸明 Photo by Michael Putland/Getty Images

破壊王が壊さなかったアコースティック・ギターJ-200

ザ・フーを象徴する名曲のひとつ「ピンボールの魔術師(Pinball Wizard)」は、右チャンネルのアコースティック・ギターのストロークで始まる。ハイハットのように高音成分のエッジが効いたサウンドで、叙情的な8分の刻みから、ブラッシングを織り交ぜた16分の激しいカッティングにつながり、そこに覆いかぶさるように左チャンネルからエレキ・ギターの図太いサウンドが轟く。

ロック史に残るドラマチックな名イントロであるが、ここでピート・タウンゼンドがプレイしているアコースティック・ギターが、1968年製のギブソンJ-200(サンバースト)であったことは、ファンの間では有名な話だ。

ピート・タウンゼントとJ-200

ピートは、ニューヨークのマンハッタン48番ストリートの楽器街にあった老舗マーニーズ・ミュージックにて、このJ-200を新品で購入している。5本試奏したうちの1本を選んだそうで、当時はアルバム『Tommy』の制作中だったので、楽曲のイメージに合うアコースティック・ギターを探している最中だったのかもしれない。レコーディングは、西ロンドンにあるオリンピック・スタジオで行なわれた。録音に使われたマイクはノイマンのU67という記録が残っている。

アルバム『Tommy』は、少年トミーの孤独や苦悩の物語をロック・オペラとして表現した壮大な内容で、その後のコンセプト・アルバムのあり方にも大きな影響を与えた2枚組作品だ。「ピンボールの魔術師」は先行シングルとしてリリースされ、全英4位のヒットを記録。主人公のトミーがピンボールの天才であったという設定になっており、ピンボール好きの音楽評論家のリクエストに合わせて、わずか数時間で書き上げたと言われている。

ギブソンのアコースティック・ギターの中で最大のボディ・サイズを誇るJ-200は、1937年に登場したSuper Jumboが前身モデルとなる。カントリー&ウェスタン歌手で、カウボーイ俳優としても人気のあったレイ・ウィットリーの要望で、最大のボディ・サイズ=スーパー・ジャンボとして開発された。同じく人気のカントリー・シンガーであったジーン・オートリーが、1933年にマーティンの最高級仕様となるD-45を特注していたので、レイ・ウィットリーは、それよりも大きなボディ、それよりも派手な装飾(花柄ピックガード)の舞台映えするギターをギブソンに依頼したのだ。

市販モデルの当時の価格が200ドルだったことから、1939年にはSuper Jumbo 200、略してSJ-200というモデル名となり、カタログ上では1947年からJ-200と表記されるようになった(ボディ内のラベルには1950年代までSJ-200と書かれていた)。

ツアーやソロでも活躍したJ-200のシャープなサウンド

ギブソン・アコースティックのフラッグシップ・モデルであるJ-200を、ピートは相当気に入っていたようだ。ザ・フーの1968年〜71年のツアーにも登場させて、1971年のアルバム『Who’s Next』の「Behind Blue Eyes」ほか、多くのレコーディングで使用している。

ソロになってからも、1977年のロニー・レインとの共作『Rough Mix』、1980年の『Empty Glass』でそのサウンドを聴くことができる。特に『Rough Mix』はアコースティック・ギターがアレンジの核となっており、「Nowhere to Run」、「Street in the City」、「Heart to Hang Onto」などでJ-200らしいシャープかつ深みのあるトーンが鳴っている。

若かりし頃はステージで数々のギターを壊し、破壊王とまで呼ばれたピートは、エレキ・ギターについてはさまざまなモデルを使ってきたが、アコースティック・ギターのJ-200に関しては、長い間メイン楽器として大切に扱ってきた。

1968年製ギブソンJ-200

ロック博物館に展示された歴史的名器

ピート曰く、1989年の『The Iron Man』制作中にJ-200のボディが“崩壊(disintegrated)”してしまったそうで、詳しい故障状況はわからないが、20年以上に及ぶピートとJ-200の蜜月は幕を閉じてしまう。その後の修復により蘇ったJ-200は、1993年にオハイオ州クリーブランドのロックンロール・ホール・オブ・フェイムに寄贈される。現在でも展示されており、サウンドホールまわりのピッキング傷など、当時の激しい使用状況を想像させる姿を確認することができる。

ピートはその後、何本かのJ-200を手に入れており、近年はナチュラル・フィニッシュのJ-200を抱えている姿をよく目にする。自伝のインタビューでは、“音はウッド・ブリッジのほうがいいが、レコーディングではチューン・オー・マティック付きのJ-200を使っている”と語っていた。近年ステージで使っているJ-200には、フィッシュマンのEllipse Matrix Blendが装着されている。

2004年にはギブソンからピート・タウンゼンドSJ-200限定モデルが発売された。ボディはナチュラル・カラーで、指板の最終フレットにピートのサインが入っているのがポイントだ。

2025年の8月から9月にかけて、ピート・タウンゼンドとロジャー・ダルトリーは、ザ・フー名義で“The Song Is Over”と銘打ち、北米ツアーを開催した。ロジャー・ダルトリーの体調不良でいくつかの公演延期はあったものの、アメリカとカナダの主要都市を巡り、多くのファンを熱狂させた。

2025年現在、ピートは80歳。難聴も進み、ステージでのギター演奏は今回のツアーが最後と言われている。しかし、音源に残されたJ-200のサウンドは、まるでピンボールの跳躍のような鮮やかさで、今なお聴く者を魅了し続けているのだ。

Gibson/J-200

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