できないことを解決する方法を見つけることが好きだったんです
──こーじゅんさんが運営するギター教室=KGA Studioの公式HPでギターを始めた経緯について語っていますが、ベースを始めた時にギターの低音弦を使って練習していたそうですね。ギターはもともと持っていたんですか?
いえ、最初は何も持っていなくて、人のベースを借りていたんです。ベースを初めて弾いたのは、病気で文化祭に出られなくなった軽音楽部のベーシストの代役で。代わりのベーシストを探していて、僕はベースを弾いたこともないのにできる気がして、“やらせてくれ”って言ったんです。でも全然うまく弾けなくて、悔しかったんですよね。
それで、本格的にベースを始めようと思って、また借りようとしたんです。でも僕がテキトーに扱ってストラップ・ピンがはずれちゃったりしたのもあって、“お前は雑に扱うから貸さない”って……。じゃあ自分で買うかってなったんですけど、沖縄の楽器店にあるベースは安くても5万円くらいで手が出せなくて。エレキ・ギターの初心者用セットが9,800円くらいであったので、“上のほうはベースと同じチューニングだし”ってそれを買ってベースラインを練習していたんですよ。
でも、だんだんとそれが面白くなくなってきて。そんな時に友達から“お前、ギター持ってるんだろ? うちのバンドでギターやらんか?”って誘ってくれたんですよ。その時はまだ“俺はベースなんだけどな”って思いながら、“じゃあ、ギターもやってみようかな”って。
──沖縄の楽器店に安いベースが売っていたら、今とは状況が違ったかもしれないですね。
そしたらベーシストですね。本当はベースが一番好きで、憧れは今もあります。
──そこからギターはどんな練習をしていきましたか?
高校生の時は友達のプレイを見て、それを真似ていました。そのあと、“沖縄の中の町に生演奏バンドが演奏する店を開くから、ギタリストとして働くか?”って支配人がスカウトしてくれたんです。でも、コードもわからないままギターを弾いてきた状態だったので、周りの先輩たちからは“下手くそ”って何度もダメ出しされて。その中でも、“あの先輩はこうやって押さえてたな”みたいに見ながら学んでいきましたね。
で、なんとなく弾けるようになってきてからは、トモ藤田さんの教則DVD『ギタリストのための演奏能力開発エクササイズ3〜リズム/グルーヴ強化編』をめっちゃ練習しました。お店ではオールディーズやロックンロール、ロカビリーをやっていたので、それは完全に趣味で。でも、それでカッティングがすごく好きになったんです。
──周りのギタリスト以外でコピーしたのはトモ藤田さんくらい?
働いていたお店で神とされていたのが、エルヴィス・プレスリーやブライアン・セッツァーとかで。周りもそういうプレイをするようになっていったので、僕は“ブライアン・セッツァーを見たら真似しちゃう!”って思って、本当は好きだったのに聴かないようにしていたんですよ。だから、お店の感じとは関係のないトモ藤田さんのDVDにハマって、19歳頃は「JUST FUNKY」をめっちゃ弾いていたんです。
──セッツァーをあえて聴かなかったというのは、オリジナリティを築きたいっていう思いがあったんでしょうか?
当時の考えは忘れてしまいましたけど、自分は周りの人よりもギターが上達しなくて、上達するためにどうすれば良いか、練習方法を自分で考える毎日だったんです。たぶん“こういうギタリストになりたい”というより、できないことを解決する方法を見つけることが好きだったんですよね。
自分ができないものを見つけたら嬉しくて、それを解決する薬を開発する研究者みたいな。ただその薬は試さないといけないんですけど、友達に“この練習やってみて”って言ってもやってくれない。だから自分で試していたら、段々とできるようになっていったんです。
アコギを選んだ理由は、アンプにつなげないでも音が出るから
──20代に入ると突発性難聴で音楽から離れたそうですが、その間、ギターとはどう接していましたか?
当時エレキ・ギターは持っていたんですけど、一回もハードケースから出してないですね。友達からアコギを借りていて、たまにCコードを押さえるくらい。ひと月に2分ぐらいしか触っていないので、辞めたって言ってもいいくらいでした。
──そこから27歳で活動再開されるまでの経緯は?
実は23歳の頃にギターを弾いているんですけど、そこは省いていて。というのも、僕の中ではやる気もないままギターに触っていた時期だったので、あれは弾いたうちに入らない、と。
──その時はどういう活動をしていたんですか?
色んなことがあって、ヤマハの“The 4th Music Revolution Original Song Contest”(2011年)っていうコンテストにたまたま出ることになったんです。失礼かもしれないですけど、ほとんど練習しないで出場したら沖縄のグランプリになって。光栄なことなんですけど、僕の中では“ギターをやっていた”とは言えないくらい適当に弾いていたんです。
でも次が全国大会になるので、“だったらちゃんとやってみようかな”って思っていたんですけど、東日本大震災があって中止になってしまったんです。
──そこでまたギターから離れてしまうんですね……。
はい、そのあと沖縄を出て、福島にボランティアに行きました。で、結婚をして横須賀に住む時に、工場で働くようになったんです。それが合わなくて、自分に合う仕事を考えて音楽をやろうって思ったんですけど、人の前に出たくなかったんですよね。そこで、講師だったらギターが弾けて、上手くなろうとして良い職種だし、人前にも出ないから良いのかなって。そこから講師になる勉強をしていきました。
──それはどんな勉強を?
自分ができるものを一般的な音楽理論で言うなら何か、っていうのを勉強したんです。例えば、自分が箱バンの時に“このキーの時にはこのコードが出がちだな”ってメモったものが、ダイアトニック・コードだってことを学んだり。
──その時にはもうアコギがメインだと思いますが、エレキから持ち替えた経緯はどういったものでしたか?
コンテストに出る時にアコギを手に入れたんです。なんでアコギにしたかっていうと、アンプにつなげないでも音が出るから。本当はダメなんですけど、沖縄でよく海の近くでエレキ・ギターを弾いてたんです。その時に“アンプがなくてもギターの音が出たら良いのにな”って思ってたんですよ。アコギならそれができるからっていうだけですね。
──そこからアコギで特殊な奏法をやるようになった流れは?
僕はもともと、作品をみんなに聴かせたいとか有名になりたいっていう考えがなくて、ただ挑戦がしたいだけなんです。難易度が高いほうを選んでいたら、こういう形になっていった感じで。
例えば、指で弾いたら簡単なものはピックで弾きたいし、カッティングでダダダってできるものを、あえて指でやりたい。“効率悪いじゃん”っていうほうが、僕の中では面白くて。
ただ、その中でもスラム奏法やギャロッピングは僕の奏法には入っていないんです。スラム奏法は、前のギターを叩いていたら穴が開きそうになって、“永遠にできるものではないな”って思ってやらなくなったんです。ギャロッピングは、周りにも好きな人がいっぱいいるので、聴いていれば楽しい。人がやってなさそうなものをやりたくなる、っていうのが根本にあると思うんです。
音楽によって人生が、自分自身が良くなっていった経験を伝えたい
──作品を残したいと思っていなかった中で、『報道ステーション』(テレビ朝日)のテーマ曲「brave」が生まれた経緯は?
YouTubeやSNSで自分がやっていたものが、『報道ステーション』の方の目にとまって“やってみませんか?”って話をいただいたんです。
──曲のテーマや音楽性など、ディレクションは入ったんですか?
コロナ禍が始まる直前くらいで、“落ち込み気味な日本を奮起させるような、希望を持たせるような曲”という感じでしたね。それで、頼もしい音楽仲間と本番当日にセッションをしながら作っていきました。コード進行やキメ、終わり方、転調などの細かいところを決めて、あとはアドリブです。
で、ちゃんとしたレコーディングはほぼ初めてで、メイキング映像用にカメラで撮られながらだったので、すごい緊張感でした。しかも最初から最後まで一発録りで、全パートが同時録音なんですよ。
──最後に、現在はギター教室のKGA Studioを運営していますが、こーじゅんさんにとってKGA Studioがどんな存在かを聞かせて下さい。
僕自身、音楽に育てられている感覚があるんです。できないことと向き合う心が常にあるので、世の中の人が面倒臭いと言うようなことも、僕は大切なことだって思えるんですよね。それに、自分ができないことが多いから、弾けない人を見てイライラしたことはもちろんないですし、気持ちがわかる。頑張る人を応援する気持ちが心から湧き上がってくるんです。
そういう素直な心だったり、人生に必要なものは、ギターと向き合う中で少しずつ手に入っていった気がするんですよ。そうやって音楽によって人生が、自分自身が良くなっていった経験をみんなにも伝えていきたい。それがKGA Studioをやろうと思ったきっかけなんです。
『THE FIRST AND LAST』こーじゅん
Track List
- Opening
- ヒゲ
- Bird
- 誕生
- 陽炎
- Continue
- 呼吸
- 冒険
- そよ風
- 直感
- 気まま
- Mist
- 秘密基地
- Lee
- スナイパー
- Earth
- 空
- 高架橋
- Magic
- 夜明け
- Ending